「とりまボランティア」に違和感を感じる理由

「とりまボランティア」に違和感を感じる理由

ボランティアに行って何がしたかったの?

ボランティアは就活のため?

「大学になったら挑戦してみたいことランキング」に毎年上位に入るボランティア。

大学にはボランティアサークルといわれるものが数多く存在します。例年数多くの人が各々の目的を追い求め大学生活を充実させていきます。長期休暇には発展途上国に行ったり、被災地などに言ったりして清掃活動や現地の方と交流するなどをし、将来への期待と希望を抱いて帰ってきます。

「就活」という波を乗り越えていくための船を作り上げていくのです。

自己満足感を感じる理由

さて、ボランティアを終えてきた人の感想を聞いていると、

「はじめはこちらが元気を与えるつもりで行ったが逆に元気をもらえた。また行ってお手伝いしたい」や、

「テレビで見た光景を目の当たりにして言葉にならなかった。その中でも必死に生きている方々を見て勇気を得ることができた。」

など。

ここで一つ疑問点があるのですが。彼らの本当の目的とは一体何でしょうか?もう一度感想を読み直してください。すべて利己的な考えではありませんか?

「元気を与える」「勇気を得ることができた」

全てのボランティア活動ではありませんがほとんどの活動は利己的考えのもと遂行されているのです。

ボランティア活動とはある問題についてそれを解決するためにそのコミュニティまたは自治体の力を行使しても解決不可能であるという場所に赴き、労働力を無償で提供し、以前よりもより良いものにすることが本来の目的です。

多くの大学生はその現地に行って何か活動を行うこと自体が目的となり、一番大切な相手の事など考えていないこともあるのです。もしかすると「ありがた迷惑」になっているかもしれません。

「発展」は押しつけ?

途上国ボランティアの葛藤

私もこれまで数多くのボランティア活動に参加しました。海外から国内、期間も数日のものから一年間企画したものまで様々です。その中で

「軽い気持ちでしてはいけないな」

と思ったのが発展途上開発系ボランティアです。一番大学生が憧れるものですよね。(笑)

なぜかというと、現地の方が必要としていることを行うことが非常に困難だからです。

現地の事情などネットで少し調べた程度、その国に対してそこまで思い入れがあるわけではないのに日本の生活水準と比べて「○○ができないから」と思い込み無理やり導入する。

そんな最新システムを導入する環境も整っていないし継続するための土台も作っていないにもかかわらず、こちらだけの理由でどんどんと踏み込んでいってしまいます。

幸せのハードルが上がると不幸を感じる

 

一ついい例をご紹介しましょう。世界一幸せな国といわれたネパール。現在では国民幸福度が下がっているといわれています。その理由として大きくあるのはボランティア活動などによる外国人訪問数の増加です。

ネパールの人々は外からやってくる最新システムと先進的な生活水準の人々と出会うことにより自分たちが遅れていることに気づき、自分たちの生活を不便と感じてしまうのです。

外国人は携帯で、いつどこでだれとでも連絡を取ることができるが自分たちはできない。その生活リズムのギャップが幸せの満足感を減らしていくのです。もともとあった生活リズム、水準で満足していたのに外的要素のせいでそれが崩される。

自分勝手で迷惑なことはないでしょうと僕は思います。確かに私達から見れば彼らの生活は不便で不自由に感じるかもしれません。だからと言って上から目線で手を差し伸べてあげるような心意気でボランティア活動されては困ります。

やはり自分の就活のためなどといった利己的な思考でしか動いていないとしか思えません。俗にいう意識高い系大学生ですね(意識高いか意識高い系の線引きってなかなか難しいですけどね)

皆さんどうでしょうか?これからのボランティア活動に対してもう少し考え直してみてくださるとうれしいです。